友達の子供が、毎日同じDVDを見ているそうです。彼はまだ幼稚園児。きっとアニメだろうなあと微笑ましく思っていたら、友達宅に遊びに行った時「これだよ」と見せてくれました。なんと親世代が懐かしむようなアーティストの、ライブDVDです。なぜこれが、と思いきや「きらきらするのがかっこいいから」ですって。舞台効果のことですね。この子は将来、その業界で活躍するのかもしれないと、親と一緒に笑いました。
こういう子供時代の記憶は、大きくなってから残らない場合もあると思います。でも、好きという気持ちはきっとずっと、胸にあるはず。だからでしょうね。大人になって「やりたいことがわからない」という若者は、小さな時に夢中になったものを突き詰めていくと、やりたいことが見つかる場合が多いのですって。たとえば、プラモデルが得意だった子は、手先を使う仕事を選んだり、計算が早かった子は、数字を扱う業務に就いたり、ということです。
かく言う私は、仕事ではないけれど、本を読む趣味だけは、ずっと続いています。住む場所が変わって、慣れない土地で苦労をした時期も、転職して多忙を極めた時も、体調を崩した夜ですら、読書だけはやめられなかったのです。
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漫画家さんの音楽事情
先日、知りあいの漫画家さんが、お気に入りの音楽について話していました。彼女は、プロットを立てる時はこの曲!というのが大体決まっているらしいです。ペン入れの時は作業という要素が強いので、テレビを見ながらでもできると言っていましたね。でもそれまでは、画面が動く物は駄目なのだとか。意識が持っていかれてしまうということかしら。
そういえば私が学生時代、深夜に勉強をする時は、たいていラジオを聞いていました。ただ本当に好きなアーティストのものではなく、聞き流せるものが良かったですね。しんと静まり返った部屋の中だと、なぜか集中できないので、音があるという状況を作り出していたとも言えます。でもお気に入りの方だと聞き入ってしまいますから、駄目なのですね。
ただ漫画家さんの話はよく聞きますが、小説家の方の音楽事情は、耳にしたことがありません。やっぱり常に文章を考えている身としては、音があると邪魔なのかしら。どこかでチャンスがあれば、ぜひご意見が欲しいところですが、残念ながら、簡単に質問できる知りあいはいないのですよね。まあ、話してもらえたからといって、私の好奇心が満足するだけではありますけれども……かなり興味はあります。
厄日には冒険譚を
先日、自宅読書のお供にと、冷蔵庫の奥からチョコレートを取り出そうとした時のことです。横着をせずに、手前に入っていたお皿をどけてから手を伸ばせばよかったのですが、それを面倒がってしまったので、案の定。前のお皿を落として、割ってしまいました。もちろん中に入っていた食べ物は、床の上に飛び散っています。ああ、やってしまったと落胆とともに片付けながら、私は子供の頃に見たアニメを思いだしていました。
動物が出てくるものなのですが、悪戯の子がいつもこうして、食べ物をこぼすのです。片付けのシーンはないのが常でしたが、あれをきれいにしていたのは誰なのでしょう。登場人物の家族かしら。毎回毎回、さぞ大変だったでしょうね。私だったら、わざとあんな風に部屋を散らかす子は、絶対許しておきません。
自分で自分に説教しつつ、部屋を片付け、チョコレートは諦めました。なぜか食べたいという気持ちが失せてしまったのです。そのかわりにお茶を入れて、椅子に座ってほっと一息。甘い恋愛小説を読むつもりだったけれど、このもやっとした気持ちが消えるように、冒険活劇に変えました。剣を振るう主人公に、敵も嫌な思いも全部、切り捨ててもらおうと思ったのです。
人それぞれの生きる術
「読書とは生きる術を探すもの」そう言った友人がいました。「小説を楽しむのもいい、知識を学ぶのもいい、けれど最終的には違う目的があるのではないか」という言葉の先に、続いたものです。もちろんこれは、処世術という意味ではないでしょう。
今までは一緒に、漫画やライトノベルを楽しんでいたのに、何があったのかと思い聞いてみると、とても感銘を受ける作品に出会ったのだということでした。彼女は、たとえば登場人物がかっこいい!と盛り上がっている作品があるとして、そのキャラやストーリー以外に目を向ければ、違ったものが得られるというのです。
言われてみれば、確かにそうかもしれない、と思う部分があります。以前読んだバトル漫画は、中世の外国を舞台にした作品でしたが、たとえばそこに描かれている文化は、史実に似通ったものがあります。それがきっかけで実際の歴史に興味を持ち、実際に学問として取り組む人もいるかもしれませんし、その登場人物そのものの考え方が、私たちの今後の思考に影響を与えることだってあるのです。
生きる術というととても難しいことのように感じられますが、きっとそれらは、案外身近にあるのでしょう。目から鱗の、友人の一言でした。
電話ボックスで本の交換
先日、テレビで、自宅前に設置した小さな木箱に、使わなくなった電話ボックスに、そして店の周囲の壁に、古本が並んでいるのを見ました。どれも外国の話ですが、どこも、本を物々交換するために設置されたのだそうです。とても素敵な発想ですよね。もし自宅近くにこのような場所があったら、私は毎日通ってしまうと思います。でも日本でも同じ方式が成り立つかしら。こういう目新しい物は皆、距離を置きがちなイメージがして、どうも想像がつきません。
ただもしかしたら、うちの近くにないだけで、どこかにはあるのかもしれませんよね。しかし大きな図書館ならインターネットで検索して探すことも可能ですが、地域の人が設置した小さな場所は、現地へ足を運ばない限りは、その存在を知ることは難しいでしょうから、現状では、私が出会う機会は少なそうです。もし旅行に訪れたり、近場でも普段は通らない道を歩く時は、ちょっときょろきょろしてみるのが良いでしょうか。
ここまで書いてふと思いましたが、そういえば、最近は公衆電話を見る機会がずいぶん減っていますね。この間初めて行った病院にあった時は、「こんなところにあるんだ」と驚いてしまいましたもの。そうなると、電話ボックスに出会う可能性は低いかしら。残念です。
初心が未来を救う
知人に、漫画を書くことを生業としている方がいます。その人は今でこそ連載を持っていますが、デビュー当時は、それは大変な思いをしたそうです。その際、自分に足りないものは何かを知るために、ひたすら絵を描き、話の作り方を学んだのだとか。しかも本を読んだり人に聞いたりしたのではなく、人気の方の漫画を読んで、模写したりプロットを立ててみたりしたのだそうです。
自分はプロになったのだというプライドもあったでしょうに、この初心に帰る向上心は、見事だと思います。結果努力は糧となり、今の地位を築き上げたのですもの。普段話しているぶんには、明るく楽しいことが大好きで、苦労があったことなどみじんも感じさせないのも素晴らしいと思いました。本当に、尊敬に値する人です。
たぶん、世に出ている方たちは、陰ながらたくさんの努力をしているのでしょうね。ファンの夢を壊さないために、ちょっとの体調不良も不満も隠して、明るいところだけを前面に出しているのでしょう。職種は違っても、漫画家の友人となんら変わることはありません。ただ、人前に出る方だけではなく、自分だって頑張れるはず。ぜひみなさんを見習って、私も前向きに進んでいきたいと思います。
雰囲気の魔法を求めて
友人と、キャンプで食べるカレーは美味しいという話になりました。たとえ飯ごうで炊いたご飯が焦げていても、カレーが普段とは違うメーカーのレトルトだったとしても、そして食べ物の上に灰が舞っていたとしても、なにも気にならないのです。たぶんそれは「外で、皆で食べている」という魔法がかかっているからなのでしょうね。
本を読む時にも、そのような魔法が感じられる時があるのですよ。たとえば図書館の机に向かってページを繰っていると、内容がどんなものであれ、自分は学んでいるという気持ちになります。あの静寂と、本に囲まれた場所という事実が、そう思わせているのでしょう。反対に自宅で横になっている時は、たとえ資格試験のテキストを見ているのだとしても、どうも軽い気持ちになっていけません。学習は机に向かってという意識が働いているのか、それとも普段そうやって読むものが軽いものばかりだからなのか……おそらくは両方なのでしょうね。
しかしそういうことは、図書館の机に向かって資格の学習を行えば、すごく立派な自分を錯覚できるということでもあります。もしかしたら普段以上に、内容が頭に入ってくるかもしれません。そう言った後にいそいそと外出準備を始めた私を、友人は笑いながら見ていました。
古本市で運命の出会い
先日、近所のショッピングモールの片隅で、本のバーゲンセールが開催されていました。本来定価が決まっている物なので不思議ではあるのですが、偶然その場を見つける度に、じっくりと物色してしまいます。今回は、絵本を一冊買いましたよ。今度友人が子供を連れて遊びに来る予定があるので、その時に読んでもらえればいいかなと思ったのです。古い物なのかちょっと色あせていたけれど、読むのには支障ないでしょう。
以前は、古本市などもよく行われていたのですけれどね。大抵はデパートのフロアの一部にずらっと本棚が並んでいるというものでした。とくにジャンル分けされているわけではないため、探す方はひたすら全部の棚を見て行かなくてはなりません。最後の方には、文字を追うのに疲れて、目がちかちかしてくるのですよ。それでも開催を知るたびに、わざわざ演出して通ったことは言うまでもありません。
帰る時にはきまって、手が痛くなるほど重くなった紙袋を抱えていました。自分が幼少の時に読んで失くした後、題名がわからなくなってしまっていた絵本を見つけた時は感動でしたね。それは今でも私の書棚に並んでおり、遊びに来る子供たちが必ず一度は、親に読んでもらっています。
『好き』は変わる
先日、我が家に遊びに来た知人の子供が、私の部屋の書棚にかかっているカーテンを開いて、中を覗いていました。埃避けもあるけれど、見られたくないから隠しているのに……。彼はまだひらがなしか読めないので問題はありませんでしたが、もっと大きくなった時のために、本の並べ方も考えないといけませんね。友人には「思春期の子供が、親に秘密を知られた時みたいな顔してたよ」と笑われてしまいました。
世の中にはいろいろな本が出回っていますから、好みによっては、知られたくないものもあるでしょう。それは年齢制限があるかないかの区別によらずです。なんだってそうですよね。自分はいいと思うものが、相手によっては地雷となっている場合も多々あります。
私はよほどのことがない限り、人が好きなものの話は聞くようにしています。もしかしたら、自分は避けていたけれど、その中に楽しみのきっかけがあるかもしれないからです。子供の頃に好きだったトマトが、大人になってから嫌いになった友人のように、嗜好はいつ変わるかわかりませんから、自分からその変化を遠ざけてしまうのは、勿体ないと思っているのです。……ただ、私の書棚にある物は、彼がもう少し大きくなるまでは、やっぱり隠しておきましょう。
記憶に残る贈り物
先日机の引き出しの中を整理していたら、手のひらサイズの絵本が数冊、出てきました。遠い昔、祖母が旅行に行った時にどこかで買ってきてくれたものです。中に書かれているのはその場所に由来する昔話。せっかく見つけたので、とても懐かしく読みました。
祖母はこうした細々したものが大好きで、ほかには和紙で作られた女の子の形をした人形や香り袋など、ちょっと古風なものを贈ってくれました。その多くは残念ながらもう残っていないのですが、この絵本は、私自身がよほど大切にしていたのでしょう。ちゃんとボックス入りなのも、子供心に格好いいと思ったんですよね。とても特別な感じがしたからです。
今私のまわりには、親戚や友人知人の子など、結構な人数の子供がいます。時にはプレセントをすることもありますが、その子たちの記憶に残るようなものが贈れているといいなあ、と思いますね。今までは、玩具やぬいぐるみ、お絵かき帳に、色味の多い色鉛筆などをあげてきました。あとは図書カードですね。本当は「これがお勧め!」という作品もあるのですが、それはあくまで私の好みで、本人がどう思うかわからないので、カードに落ち着いています。祖母のように、当たりを送るのは難しいですからね。