皆さんは梶井基次郎の檸檬を読んだことはあるでしょうか。
学校の現代文の授業で取り扱うこともありますし、近現代文学の中でもとても短く、青空文庫でも読むことができるので、とても身近な純文学といえるでしょう。
私は学生の時初めて檸檬を読んだとき、内容をほとんど理解できなかったと記憶しています。親に檸檬について尋ねてみた時も「頭のおかしい男が本屋に爆弾に檸檬置いていく話」くらいの所管が返ってきて、なんとも親子そっくりだなと感じたのを思い出しました。
なんでこんなことをいきなり文章にしているのかというと、最近檸檬を友人と共に読み返す機会があったのです。友人はとても純文学が好きな人で、檸檬に関しても、読む度に、あるいは日によって抱く感情が変わるのだと言いました。前向きに受け止められたり、悲しくなったり、その感情の種類は様々だそうです。
私は、檸檬でそんなことが……?と懐疑的な声をあげてしまいましたが、だったら、と読み直してみたのです。結論、学生の頃よりかは目が滑らなかったかと思います。
――えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。
主人公曰く、これは肺病のせいでも精神衰弱のせいでもない、焦燥や嫌悪感。そしてかつて美しいと思ったものや好んだものに対して辟易したような重苦しいものを感じるのに反し、みすぼらしいものや壊れかけた街並みやがらくたを美しいと思うようになった。
そんな書き出しは大人になった今であればどこか理解ができるもののように思います。大衆やマジョリティに対して斜に構えたいわけではないのですが、何となくそれを嫌に思ってしまうような。
――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。
そんな憂鬱が、ただあたりまえな八百屋のごくありふれた檸檬一つで紛らわされた。きっと普通はそんなことで憂鬱が晴れることなんて考えられないけれど、自分にとってはそれが紛れもない真実であった……。
ここも学生時代には理解できなかったけれど、大人になってみると何となく共感できるような気がします。というか、学生の頃は読解力が足りなくて、どういう意味?となっていた気がします(笑)
仕事でミスをしたり、嫌なことがあったりして憂鬱な時に、何か一つ些細なことでまるっきり心が晴れてしまうような感覚。皆さんはありませんか?
もしかしたら友人が背を押してくれるような感覚になると言っていたのはこの辺りなのでしょうかね。
あるいは、主人公は病で体温が高いのを、檸檬の冷たさが癒してくれるともありましたが、これも精神的な余裕を生んでくれる一助だったのでしょう。丸善に足を運んでみようという気になるくらいには。
結局、檸檬一顆の重さよりも丸善の店内に立ち込める憂鬱の方がずっと重かったようですが。
ちなみに原文では「立て罩めて来る」とあって、常用しない漢字が含まれていたので調べてみたのですが「罩」には、「かご」や「入れて包む」という意味があるらしく、梶井基次郎は人という籠の中に憂鬱がどんどん流れ込んでくるのをイメージしていたのだなと思いました。まぁ「込める」でも意味はあまり変わらないかもしれませんが。
さて、ここまではいいのですが、ここから先は学生時代の私と同じことを思ってしまったのです。
本屋さんで重たい画集を引っ張り出しては積み上げ、まるで積み木のように本を扱う様に「なんて傍迷惑な!」と。私が本を乱雑に扱うのを厭うことからくる感情なのかもしれません。
さらにはその本の城の上に爆弾に見立てた檸檬を置いて立ち去る……。うーん。本屋の店員さんの仕事が増えて可哀相でなりません。
当の主人公は、きっと背徳感なのでしょうか、くすぐったい気持ちのまま本屋を出て、憂鬱でいっぱいの丸善が爆弾で吹き飛ぶ様を妄想するのです。
まぁ、嫌なものやことに対して、空想の中であれやこれやと仕打ちをしたり、天罰が下ったりするような仕草は私もしたことがあるので、きっとそんな気持ちなのだろうとは考えます。いえそこはいいんです。
まるで子供の悪戯のようにそんなことを……と、ここまで書いてふと思い出しました。
びいどろを口に入れてはその清涼感に癒されていた主人公のことを。幼少期の甘い思い出が大人になって甦り、幼時と同じようにそれを嘗めては享楽に浸っている。
もしかして、それと同じなのか……?
口にびいどろを入れるのは両親にしかられる「いけないこと」で、売り物の本に悪戯するのも到底やってはいけないことです。大人の幼児返りはストレスにより起こるものですが、似たようなものがあるのだろうか……と考えました。
改めて、一文一文しっかり意味を考えてみると、学生時代とはまた違った視点を持つことができました。何となく共感できる部分があったり、今でも許せない部分があったり(笑)
他の純文学も、また読み直したら感想が変わるのかもしれませんね。今度また何か読み直してみようかなぁ。