いつだったか、ベストセラーを手にした知人が言いました。「本なんて、面白かったら読めばいいし、つまらなかったら途中でやめればいいんですよ」流行りの作品には必ず目を通す彼に、どうしてそんなにたくさんのものを読めるのか、と聞いた時のことです。当然と言えば当然、しかし目から鱗に感じる人もいるのではないでしょうか。私たちは幼い頃から、毒はすることを求められているからです。
思えば小学生の頃は、毎日音読の宿題がありました。国語で習っている文章を、ひたすら繰り返して読むのですが、一時間で一作学ぶわけではないですからね。長期にわたるにつれ、読む方も聞く方も飽きてくるのですよ。もちろん学びの一環ですから、途中で「飽きたからやめる」「つまらないから別の話にする」などということはできません。でも勉強ではなく自由に選ぶ作品なら、それをしたって、誰も責める人はいないのです。
読書が苦手という人にこそ、ぜひ好きな本を次々に手に取ってほしいし、いつか、運命の一冊とも呼べるよなものに出会ってほしいと思います。そうしたら絶対に、本に対する意識が変わっていきます。無理しなくていい、好きな作品でいい、途中でやめてもいい。その言葉を胸に置けば、少しは気楽に、活字に向き合えるでしょう。
初心が未来を救う
知人に、漫画を書くことを生業としている方がいます。その人は今でこそ連載を持っていますが、デビュー当時は、それは大変な思いをしたそうです。その際、自分に足りないものは何かを知るために、ひたすら絵を描き、話の作り方を学んだのだとか。しかも本を読んだり人に聞いたりしたのではなく、人気の方の漫画を読んで、模写したりプロットを立ててみたりしたのだそうです。
自分はプロになったのだというプライドもあったでしょうに、この初心に帰る向上心は、見事だと思います。結果努力は糧となり、今の地位を築き上げたのですもの。普段話しているぶんには、明るく楽しいことが大好きで、苦労があったことなどみじんも感じさせないのも素晴らしいと思いました。本当に、尊敬に値する人です。
たぶん、世に出ている方たちは、陰ながらたくさんの努力をしているのでしょうね。ファンの夢を壊さないために、ちょっとの体調不良も不満も隠して、明るいところだけを前面に出しているのでしょう。職種は違っても、漫画家の友人となんら変わることはありません。ただ、人前に出る方だけではなく、自分だって頑張れるはず。ぜひみなさんを見習って、私も前向きに進んでいきたいと思います。
雰囲気の魔法を求めて
友人と、キャンプで食べるカレーは美味しいという話になりました。たとえ飯ごうで炊いたご飯が焦げていても、カレーが普段とは違うメーカーのレトルトだったとしても、そして食べ物の上に灰が舞っていたとしても、なにも気にならないのです。たぶんそれは「外で、皆で食べている」という魔法がかかっているからなのでしょうね。
本を読む時にも、そのような魔法が感じられる時があるのですよ。たとえば図書館の机に向かってページを繰っていると、内容がどんなものであれ、自分は学んでいるという気持ちになります。あの静寂と、本に囲まれた場所という事実が、そう思わせているのでしょう。反対に自宅で横になっている時は、たとえ資格試験のテキストを見ているのだとしても、どうも軽い気持ちになっていけません。学習は机に向かってという意識が働いているのか、それとも普段そうやって読むものが軽いものばかりだからなのか……おそらくは両方なのでしょうね。
しかしそういうことは、図書館の机に向かって資格の学習を行えば、すごく立派な自分を錯覚できるということでもあります。もしかしたら普段以上に、内容が頭に入ってくるかもしれません。そう言った後にいそいそと外出準備を始めた私を、友人は笑いながら見ていました。
古本市で運命の出会い
先日、近所のショッピングモールの片隅で、本のバーゲンセールが開催されていました。本来定価が決まっている物なので不思議ではあるのですが、偶然その場を見つける度に、じっくりと物色してしまいます。今回は、絵本を一冊買いましたよ。今度友人が子供を連れて遊びに来る予定があるので、その時に読んでもらえればいいかなと思ったのです。古い物なのかちょっと色あせていたけれど、読むのには支障ないでしょう。
以前は、古本市などもよく行われていたのですけれどね。大抵はデパートのフロアの一部にずらっと本棚が並んでいるというものでした。とくにジャンル分けされているわけではないため、探す方はひたすら全部の棚を見て行かなくてはなりません。最後の方には、文字を追うのに疲れて、目がちかちかしてくるのですよ。それでも開催を知るたびに、わざわざ演出して通ったことは言うまでもありません。
帰る時にはきまって、手が痛くなるほど重くなった紙袋を抱えていました。自分が幼少の時に読んで失くした後、題名がわからなくなってしまっていた絵本を見つけた時は感動でしたね。それは今でも私の書棚に並んでおり、遊びに来る子供たちが必ず一度は、親に読んでもらっています。
本を買うのは誰のため
先日「ライトノベルの作家で、専業をしている人はほとんどいない」という記事を読みました。いわゆる大御所と呼ばれる方はわかりませんが、若い方はなにか別にお仕事があって、生活の糧はそちらで、という方が多いのですって。作家といえば、一日中机に向かって、取材旅行なども行っているちょっと自由なイメージがあったので、これは驚きましたね。実際は、仕事をして家に帰って、その後に執筆を始め、次の日はまた仕事……というパターンなのでしょうか。
確かに書籍の出版数が減少していると言われている昨今、印税だけで生活をするのは、相当厳しい予感はします。ライスワークと呼ばれる言葉があるように、食べるためにはお金を稼がなければいけませんから、ダブルワークも必要でしょう。そう考えると、教科書に載るような文豪たちは、どのような生活をしていたのかしら。時代は違うけれど、とても興味深いです。
そういえば、有名な画家の中には、生前は全く認められずに貧困の中で生き、死後になって評価されるというパターンもありますよね。亡くなってからのどんな評価よりも、生きているうちに、そこそこの生活ができるだけのお金が欲しいと思った人もいたかもしれないと思うと、今本を買うことが、とても大切な気がします。
『好き』は変わる
先日、我が家に遊びに来た知人の子供が、私の部屋の書棚にかかっているカーテンを開いて、中を覗いていました。埃避けもあるけれど、見られたくないから隠しているのに……。彼はまだひらがなしか読めないので問題はありませんでしたが、もっと大きくなった時のために、本の並べ方も考えないといけませんね。友人には「思春期の子供が、親に秘密を知られた時みたいな顔してたよ」と笑われてしまいました。
世の中にはいろいろな本が出回っていますから、好みによっては、知られたくないものもあるでしょう。それは年齢制限があるかないかの区別によらずです。なんだってそうですよね。自分はいいと思うものが、相手によっては地雷となっている場合も多々あります。
私はよほどのことがない限り、人が好きなものの話は聞くようにしています。もしかしたら、自分は避けていたけれど、その中に楽しみのきっかけがあるかもしれないからです。子供の頃に好きだったトマトが、大人になってから嫌いになった友人のように、嗜好はいつ変わるかわかりませんから、自分からその変化を遠ざけてしまうのは、勿体ないと思っているのです。……ただ、私の書棚にある物は、彼がもう少し大きくなるまでは、やっぱり隠しておきましょう。
セットで見たい本作とスピンオフ
私がスピンオフという言葉を知ったのは、どのくらい前のことでしょうか。それが『メインの作品の脇役を取り上げて、その人を主人公に作られた作品』と知った時、どうしてそんなことをするのだろうと考えたのを覚えています。既に素晴らしい本作があって、ちゃんとした主人公もいるのだから、それで満足すればいいじゃないか、と思ったのです。
しかし実際に見てみれば、とても新鮮でした。その脇役のことは、正直に言えばそれほど好きだったわけではないのですが、その人にも人生があり、考えがあり、未来があるということがわかったからです。そんなことを意識し始めると、個々の個性を大切にしながら、個人の人生が重なるドラマを作るというのは、どれほど大変なことなのでしょう。大人のプロ集団が頭を抱えて考えて、時間をかけて作り出し、やっと視聴者が感動するものを作り上げられるのです。
私は見事な作品を見るだけですが、深く意識すればするほど、作り手の方に感謝したくなりますし、彼らの尽力……努力ではなく、まさに良作のために尽くしている、その精神を尊敬します。ぜひこれらスピンオフ作品が、本作とともに、時代を超えて長く残って行きますようにと、お祈りしましょう。
記憶に残る贈り物
先日机の引き出しの中を整理していたら、手のひらサイズの絵本が数冊、出てきました。遠い昔、祖母が旅行に行った時にどこかで買ってきてくれたものです。中に書かれているのはその場所に由来する昔話。せっかく見つけたので、とても懐かしく読みました。
祖母はこうした細々したものが大好きで、ほかには和紙で作られた女の子の形をした人形や香り袋など、ちょっと古風なものを贈ってくれました。その多くは残念ながらもう残っていないのですが、この絵本は、私自身がよほど大切にしていたのでしょう。ちゃんとボックス入りなのも、子供心に格好いいと思ったんですよね。とても特別な感じがしたからです。
今私のまわりには、親戚や友人知人の子など、結構な人数の子供がいます。時にはプレセントをすることもありますが、その子たちの記憶に残るようなものが贈れているといいなあ、と思いますね。今までは、玩具やぬいぐるみ、お絵かき帳に、色味の多い色鉛筆などをあげてきました。あとは図書カードですね。本当は「これがお勧め!」という作品もあるのですが、それはあくまで私の好みで、本人がどう思うかわからないので、カードに落ち着いています。祖母のように、当たりを送るのは難しいですからね。
習慣づけの強み
子供の頃、母の手伝いをするのが嫌いでした。面倒だったし、上手にできないとやり直さなければいけない場合もあったからです。しかし嫌々ながらも続けているうちに、いつしかそれは習慣になり、ある程度の年齢になった時には、何の苦も感じることがなくなりました。それは私がすべきことであり、言ってしまえば義務のようなものだからです。
その時以来、嫌だけどしなければならないことは、できるだけ頻繁に行って、習慣づけてしまうことを心掛けています。大変だ、面倒くさいなどと思うのは最初だけ。それをするのが当たり前になってしまえば、大成功と言えるでしょう。だって、不満を感じずに行動できるんですよ。得以外のなにものでもありません。
本当は、そんなことはしなくてもいいというのが、一番なのですけれどね。世の中は、必ずしも楽しいこと、幸福なことばかりではありませんから。それは現実だけではなく、どんな創作作品を見ても、わかることです。最悪の状況から一転、幸せなハッピーエンドに至る道筋は、大きな感動を与えてくれるでしょう。これがもし、ずっと平和な道だったならば、それほどの喜びは感じられません。禍福はあざなえる縄の如し、しかし禍はなるべく感じぬよう、頑張っていきたいものです。
本は友達と言うけれど
先日テレビに出ていたアーティストのグループが、とても仲良しだったので、羨ましくなりました。私には彼らのように、親友と呼べる人がいるだろうかと、考えてしまったのです。思えば学生時代は、それこそ友達と毎日顔を合わせていましたね。くだらないことから真面目な悩みまで、真剣に話し合ったものです。しかし今はそういう相手はいませんし、不安や不満もすべて自分の胸にしまい込んでいます。
そんな私を癒してくれるのが、多くの書籍たちです。問いかければ声が戻る……ということはないにしても、ストーリーの中には、お説教と違う答えが記されているものも多く、多くの主人公たちの言動は、勇気や喜びや、時には驚きや悲しみまで、与えてくれます。それらは日常、一人で過ごす時間が長い時には、とても新鮮に感じられるのですよ。
しかも本が相手ならば、次に会う約束をする必要はありません。こちらが気が向いた時にいつでも、ページを繰ることができます。それも素晴らしいですよね。……と言いつつも、友人が懐かしくなる時があるのも、事実。今は皆それぞれの生活で忙しい時間を過ごしていますが、たまには連絡をとってみようかしら。SNSやメールならば、邪魔にはなりませんよね。